昭和52年10月17日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いと言う事を、信じれるようになると言う事がおかげだと思うですね。あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると言う事もですけども、あれもおかげであった、これもおかげであったと言う事は、これは目に見えておる事です。例えば段々年月がたってみなければ分らない事。例えば私のまぁ今日までのことを、ずうっと思うてみましてもです。大正三年の四月一日に誕生させてもらう。
 それから六十日ぶりには大火傷をさせて貰う。そして五歳の時にはもう死ぬか生きるかと言う様な、疫痢で医者から見離される、と言う様な所を助けて頂くと言う様な難儀に当たっておる。だからそれはもうはっきり見えておる事なんですね。その火傷をしたとか病気をしたと言う事は。だから信心が段々分かってくると。あれもおかげであったと言う事、過去の一切がおかげであると言う事が分かる様になりますから、もうその病気なら病気と言う、いや是もおかげだと言えるわけですから、目に見えてるわけです。
 現実ふんまえておる問題。それは自分は難儀と思っておるけれども、これも間違いなしおかげの元だと分かるのです。けどもそれは見えておる事なんです。あれもこれもそれは見えておるおかげなんです。けれども信心をしておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いと仰る。その目に見えぬおかげが、どれだけであるか分からぬ。だからそら目に見えんから分からんのです。分からんけれども目に見えぬおかげが多いと言う事を、なら教祖様のお言葉を信ずる事が出来ると言う事がおかげなんだ。
 そこにはどういうものが生まれて来るかと言うと。愈々神恩報謝の心神様に対する、いうなら有難い勿体ないの心が、愈々募ってくるでしょうね。夕べ私はここへ一時半に目が覚めましたから、目が覚めてまぁ今日一日の、あの御大祭の模様を次々と思わせて貰いよったら、どんなに考えてももうおかげばっかり。それはけれど皆目に見ててるおかげなんだ。でここに出て参りましてから、繰り返し御礼を申させて頂いとったら。
 目に見えておるおかげに対して、御礼を一生懸命言っとるけれども、ほんならこれがまぁだ私の知らない、目に見えてないところのおかげは、どれだけあるか分からんと思うたら、もう愈々もって有難うならせて頂いた。そしたら今日はこの五十三節を頂いたからね。いつもあれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになると、本当の信者じゃと仰る。そこには言うなら昨日私が、御祝詞の中に申しましたように、もう一切が神愛と悟れた時に、そう言う事になってくるわけです。
 だから有難い百なら百有難い。もうあの事もこの事も、みんなおかげだ神愛だと思うと有難い。けれどもねあれも惟もと、分からない他にあると言う事なんだおかげは。目に見えないおかげがあるんだと。気が付かない知らないおかげがあるんだと言う事。だから是はもう教祖の神様のお言葉を信ずる以外にないのです。教祖様があぁ教えておいでられるから。だからそれが信じれる様になる時にです。初めて本当の意味での神恩報謝の心が、愈々大きくそれこそ膨らんで来る様に、喜びが膨らんで来るでしょうね。
 皆さんどうでもね、あれもおかげであった是もおかげであったと、分かるだけでも大した事ですばい。ほんなら今持っておるその難儀と言うものがね、これが神愛だと実感できたら、不平やら不足やら泣き言やら言われませんものね。もうこれがおかげの塊のように分かって来るんだから御礼申し上げにゃ。いわゆる全てがおかげおかげで有難い。けどもその有難いと思うておる、それはしかし目に見えておる事なんだ。
 目に見えぬおかげが多いというのは。あれもおかげであった、これもおかげであると、分からせて頂くもう以外のもの。もう一つ他のもの。もっと深いものもっと広いもの限りがないもの。だからこれは分からんのだから、ほんなら教祖の神様のお言葉を信ずるという以外にはない。昨日お祭りが済みましてから、私はお風呂を頂いて、寝巻きに変えさせて頂いとるところへ、熊本の矢野先生のお父様ですはね。矢野先生がちょっと帰るから、最後の挨拶をして帰ると言うて、私の部屋に見えました。
 それからまた暫く先生の話を聞かせて貰ったんですけれども。大坪先生私は安武松太郎と言う、もう又とない師匠にめぐりあったと言う事が、最高に有難いと思うておると。そんなに有難いと思うておるけれども、その師匠の信心がようやく、六十年ぶりに分かってきたと言われました。それまでは分かっていなさらなかったかと言う事はない。分かっておられたであろうけれども、まぁ言うならばですもう本当に師匠の素晴らしさは、あれもこれもと分かっておる。
 素晴らしいけれどもその師匠の偉大さと言うものがです。今まで気が付かなかった知らなかった、目に見えない世界、知らなかった世界が分かってきたと、まぁ言われるのではなかろうかと、私は思うんです。師匠について六十年その師匠の有難さが、はっきりと、去年ぐらいから分かった来たち言う。ねこにほんならこれからの矢野先生の信心が、いわば素晴らしい事になるだろうと思うて聞かせて頂きました。それでもまぁだまぁだ、分らんと言うのが本当でしょうね。
 少し分かって来たと言われるのですから。そらそうですもんね先生の信心が、本当に分かったらやっぱり甘木のあの御比礼が、そのまま輝かにゃいけませんもんねと言うて、私話した事でした。分かっていなかってもあれだけのおかげ。少し分かって見えられたら愈々おかげ。だから目に見えない所のおかげと言うものはまだ限りがない。私は色々お話させて頂いとって、昨日の御大祭に色々おかげを頂きましたけれども。
 矢野先生との出会いというのは私の信心にまた何か一つ、深さを増やして頂いたような気がするんです。これからもまたどれも、色々ご指導頂かにゃならんと思うのですけれども。それこそ六十年ぶりに初めて少し分かってきたと言われるその、少しの所に私はどうでも、今度はまぁ先生の信心に、挑んでみたいとこう思います。今合楽の信心に甘木の、安武松太郎先生の信心の、少しでも本当なものが頂けたら、まぁ言うならば鬼に金棒と言うような感じが致します。
 色々御比礼を頂かれた教会は沢山あります。現在でもありますけれども。私は昨日先生にお話したことでしたけれども、その甘木の場合は私が言っております、合楽理念という事を言っておるが。その甘木には甘木の理念と言うのがあった。いわゆる助かる理念があったと言う事です。まぁ私共が図り知る事じゃないけれども、分からせて頂く事は、まぁ安武先生ほど、天地の大恩を感得された方はなかったろうと思うです。それが色々なあられ方に出て来る訳ですね。
 それこそ枯れ枝一本、枯れ葉一枚だって天地の親神様の御物ばいと言う様な事になって来る訳です。だからそのそれが分かると言う事はね、そういうふうにそれでもほんなら、安武松太郎先生でも、まぁだまぁだお分かりならなかった。目に見えない所には、気が付いてなかった事が沢山あろうけれども、その目に見えないおかげが多いと言う事を、信じておられたと言う事なんです。それをほんなら矢野先生は、六十年ぶりに初めて少し、分かってきたとこう言っておられる。だから矢野先生が少し分かってきたというのも、私も何か少し分かった様な、甘木の先生の話は沢山ここで致しますからね。
 それが甘木の先生の全てじゃないと言う事なんです。ですからなかなか分かろうにも分かられず、分かると言う事じゃないけれどもです。やはり願いそれを求めさせて頂いておるうちにです。段々まぁ分かってくると、私は今日思わせてもらうです。ほんなら昨日あれほどしの、十年の記念のお祭りをまぁ頂きました。ならあれだけの人が集まってまいりました。もう一人ひとりが合楽にお参りをしようと言う心を起こされるまでには、どのくらい天地の親神様の働きを受けておられるか分からんのです。
 おぉ参ってきたなと言うぐらいのこっじゃないのです。それまでにはどのくらい、神様の働きがあってのことかは計り知れないです。その計り知れない事がです。今日私は目に見えるおかげより、目に見えないおかげだと思うのです。計り知れないそのおかげが分かると言う事じゃなくても、それを信ずると言う事。ですからまた計り知れないおかげにも繋がって行くと言う事になります。いつもあれもおかげであった、これもおかげだあったと言う事をここでは砕いて、皆さんに聞いて頂きますよね。
 だからもう後からあれもおかげであったと分かるよりか、今、今おかげと分からせて頂く所にです。信心の言うならば本当の救いがあるんだと。とにかく難儀で難儀で堪らん、心配で心配で堪らん事がある。けれども是が必ずおかげの元になるんだと。それが神愛だと分かったら、その場で御礼だけしか言えんのです。お礼だけしかない筈なんだ。それがこれもおかげと言う事ですからね。これもおかげであるとか、あれもおかげであると言う事が分かると言う事は、もうそれだけでも大した事なんですけれども。
 目に見えないおかげの方が多いという、おかげを分かる事は出来ませんでしょうけれども、計り知れないのですから。けれどもそれを信ずると言う事は、段々出来て来る様になる。その信ずる心がです。どう言う事になるかと言うと、今まで、難いと思うておった、有難いが百ならば、それこそ千も万もの有難い事になってくるでしょう。おかげを頂いて、昨日私がほんならここへ出てきて、御礼を申させて頂いたと言う事は、もう本当にあれもおかげであった、これもおかげであったと言う事ばっかりです。
 とりわけお天候の事なんかは、あのアドバルーンが上がるようになって一週間。あれは雨が降ったり風が吹いたりしたら、もう上げられないそうですから。そのアドバルーンが上がるようになった日から、お天候のことがずっと。と言うて途中で降って貰うちゃ困ると言う事ですから、言うならば後片付けの済むまではお湿りがあっては困るわけ。ですから丁度アドバルーンが上がってから一週間。そしたら昨日の朝あのお願いをさせて頂いとりましたら、少し曇りげになりましたよね朝。
 いわゆるあの雨気を感じました。そしたらほうかむりをした人が、傘を持ってまぁ踊り茶る舞のような舞ですね。あのこっけいな舞です。その様な踊りを踊っている所を頂いた。はぁ今日は少し曇っておるけれども、あの降っておるから、傘を持っておるのじゃないと言う様な感じがしまして、まぁお礼を申させて頂いた事でしたけれどもです。まぁ本当に、私ぐらいの者のことを、神様がよう聞いて下さって勿体ない。
 それはそのおかげをおかげとそこに見て、はっきりしておるからおかげと分かるだけ。けれども私は今日はその目に見えない所、いわば私共が気が付いてない所。信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いと仰せられる所の、その目に見えない大きな世界。それはだから知る事は出来ない。目に見えないのですから。けれどもね教祖様がそう仰せておられるから。
 教祖様のお言葉を信ずると言う事なんです。その教祖様のお言葉が本当に信じられる時にです。その目に見えない所の限りないおかげに心から、御礼が言えれる。その御礼が言えれるようになったらです。愈々いわば偉大なと言う様な信心がついて来るだろうと思われます。目に見えるおかげより、目に見えないおかげ。知ったおかげより、知らぬおかげ。私共の知らないおかげがあると言う事を、信じさせて頂く信心の稽古をさせて頂きたいと思うですね。
   どうぞ。